0
大谷吉継出生地
石田三成の盟友で、秀吉の誉れ高い大谷吉継の出生地とされる長浜市余呉町小谷(諸説あり)。小谷と書いて「おおたに」と読みます。『淡海温故録』や『余呉町誌』、さらには小谷の八幡神社社伝にも、吉継出生の地との記述があります。八幡神社は火災に遭い、吉継出生を証明する文書等はなく、小谷集落には出生地を記した碑などもありませんが、大谷吉継に敬意を払い集落名を“小谷”として継いできた地元住民の中に、吉継は今も生きています。 羽柴秀吉が長浜城主だった頃、北近江一帯で新たに召し抱えられた家臣の中に、吉継がいたとされています。 当地一帯は、秀吉と柴田勝家が信長亡き後の跡目を争った「賤ヶ岳合戦」の激戦地で、吉継も三成らとともに参戦し武功を挙げました。さらに吉継が城主を務めた敦賀5万7000石は、小谷の北隣(福井県敦賀市)にあります。 三成との義を重んじ、関ヶ原合戦では西軍として最後まで奮戦した吉継でしたが、度重なる裏切りの末に敗れ、ついに自刃します。米原市下多良には、吉継の首塚と伝わる場所があります。 なお、吉継の娘は、大坂の陣で真田丸を築き徳川家康に切腹をも覚悟させた戦国一の兵・真田信繁の正室で、良妻として献身的に信繁を支えました。